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技術、読んだ本、いろいろ。

42歳になった

41歳はいろいろ大変だった。でも大きい機能のリリースができて、反響も想定より大きくてよかった。 40代は体の変化を感じる。目が悪くなってきたりとか。ちゃんとケアしていかないといけないな。

ちょっと前に「海辺のカフカ」の一節を思い出していて、気付かないうちに〈うつろな人間たち〉の一員にならないようにしなくてはと思った。

ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う〈うつろな人間たち〉だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。

彼はため息をついて、指の中で長い鉛筆をまわす。

「ゲイだろうが、レズビアンだろうが、ストレートだろうが、フェミニストだろうが、ファシストの豚だろうが、コミュニストだろうが、ハレ・クリシュナだろうが、そんなことはべつにどうだっていい。どんな旗を掲げていようが、僕はまったくかまいはしない。僕が我慢できないのはそういううつろな連中なんだ。そういう人々を前にすると、僕は我慢できなくなってしまう。ついつい余計なことを口にしてしまう。さっきの場合だって適当に受け流して、あしらっておけばよかったんだ。あるいは佐伯さんを呼んできて、まかせてしまえばよかったんだ。彼女ならうまくにこやかに対処してくれる。ところが僕にはそれができない。言わなくてもいいことを言ってしまうし、やらなくてもいいことをやってしまう。自分が抑えきれない。それが僕の弱点なんだ。どうしてそれが弱点になるのかわかるかい?」

「想像力の足りない人をいちいち真剣に相手にしていたら、身体がいくつあっても足りない、ということ?」と僕は言う。

「そのとおり」と大島さんは言う。

想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか――もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合は取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。

ちょっと前に「街とその不確かな壁」を読んだ。ひさしぶりに集中して一気に読んで、なにもわからなかったが面白かった。もうちょっと小説を読む時間も作りたい。

42歳がどんなふうになるのか、さっぱりわからないけど、なるべく後悔のないように過ごしたい。